おそらく4時半頃集合だったかと思います。ガンジス川、日の出のボート乗船。
前日、リクシャで帰った路をマイクロバスと徒歩で進みます。
ダシャーシュワメード・ガート。既に大勢のインド人が沐浴をしています。
しかし河に目をやると、なんだか荒れているような感じ。
案の定、水量過多のためボート乗船は中止となりました。何のための早起きだ?
仕方なく心を観光にスイッチ。でもそんなに見るものもない。
一度ダシャーシュワメードを離れたあと、北上してまた別のガートへ。
ここはひとが少なく、ダシャーシュワメードを遠望できます。
さらにこのタイミングで日の出になったので、しばらくは撮影タイム。
でもなんかなあと思っていたらもうひとつ来ました!
マニカルニカー・ガート。いわゆる火葬場のガートです。
ここはたしか前回も行けなかった。見たいと思っていたところでした。
が、このガートへの道は長く、細く、不衛生です。
連れ合いはここにもっともインパクトを感じたらしい。悪い意味で。
しばらく火葬場の麓で待機していましたが、ガイドがようやく行きたいか聞いてくる。
圧倒的多数で見学決定。費用は薪代の200Rs。
火葬場ガイドに連れられて、火葬場への階段を上ります。
おそらく広さは、うーん、10畳分くらいか。もっとかな。
中央が火葬場で、その周りをぐるりと回れます。ただ熱い。焼けるのじゃないかと思うほど。
焼き場には無造作に頭蓋骨が2つほど転がっていました。
また今まさに焼いているところでは、焼き具合のチェックがされていました。
棒で引き上げられたそれは、頭蓋骨とそれにつながる背骨でした。
真っ黒でしたがはっきりと見えました。意外とグロい…。
その後しばらくは衝撃の余韻に浸っていたのか記憶が曖昧で、
おそらく行きと同じ手法で帰路につき、各自のホテルに着いたのかと。
既に朝食の時間帯だったので、連れ合いは食事をとりにいきました。
ぼくは原因不明ながら食欲が全くなく、しばらく部屋で眠ることに。
起きたのは連れ合いが戻り、朝食の時間帯も終ろうかという頃。
一応食堂までおりましたが、やはり食べる気にならず、
飲み物とデザートのフルーツのみつまんで終わりにしました。
再び部屋で眠りにつき、起きたら昼前。
再集合は12:45でそれまでに昼食をとらないといけません。
が、12時頃連れ合いと食堂まで降りるも、やはりダメ。
目の前の食料を見て気持ちが悪くなるほどでした。
結局またデザート類でごまかして終了。それをおかしいとも感じませんでした。
再集合後は一路バラナシ空港へ。デリーまで1時間強で移動します。
このとき、ガイドが意外な動きを見せました。空港に入る前、携帯電話をかわれと言う。
訳わからずその携帯を耳に押し付けると、相手は日本人女性。
で、インドでの下痢止め薬について、あまりお勧めしない、できれば医者にかかってと言う。
そういえばバラナシに着いた時、薬についてガイドと話しました。
そのときは同行している夫婦の奥様から日本の薬を譲り受けたのですが、
本当ならインドの薬の方が効くんですよね、と。
とりあえず、様子を見てみますと曖昧に答えて携帯は切りました。
その後、空港では明らかに動作が緩慢になり、喉が渇きました。
で、記憶も曖昧になり、デリーでの国内空港の記憶がありません。
次の記憶はデリーの宿に着く直前、ガイドが手を触れてきて調子悪いのでは、と聞いてくる。
うーん、と曖昧に反応し、宿の門から玄関への道中で今度は少し強硬に。
ああ、そうまで言うならいいかと頷いたところ、医者の手配を始めました。
時間は18時頃でしたが20時には来るとのこと。とりあえずは部屋へ。
ほぼ時間通りに医者はやってきました。大きな身体にアーリア人風の面構え。
あとで書類で知りましたが、ホテル嘱託の医師でロンドンで資格を取り、
一時は軍に身を置いていた様子。
形式的に熱、鼓動、血圧などを計測し、舌を見せろと言う。
その通りにすると、よくない。体温が38度を超えているし脈も速い、と。
そうかあ、注射とかしてくれるのかなと思っていたら、飲み薬を処方されました。
沈痛解熱薬(crocin)抗生物質(ofrox-400)経口補水塩(electral)。
その上で飲み方と食事に関しての指示を受けました。治療費は諸々込で3200Rs。
そうかあ、と若干がっかりしながらも、医者が帰ったあと、服薬して眠りました。
ここらへんも記憶が曖昧です。なぜなら…。