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2012年8月

2012年8月31日 (金)

英語

ぼくが話せる英語はいつまでたってもa littleです。

中学の時は英語をスポンジのように吸収した記憶があるのに、
高校、大学では進歩した感覚がまるっきりありません。

海外を旅行していて、相手が噛み砕いて話してくれても理解度は50%くらい。
この前のインド人医師との会話もその程度でした。
便とか小便とか、意外と簡単な語彙を知らなかったり。

ただ普通に話しかけられた場合でも、話のあとに間があると、聴き取れた語彙から
話の内容をある程度推測することはできます。
しかし映画のように次から次へとしゃべられるとそれもできません。
オーストラリアのウルルでのネイティブの会話はなにひとつ理解できなかった。
飛行機のなかの韓国映画の英語字幕は理解できましたが。

もう30年くらい、本当に進歩がありません。
何年か前、連れ合いが英会話のお茶の間留学をしているのを見て、
やはり進歩しないなあと思ったところからすると、
英語というのはある程度の年齢を過ぎてしまうと、習得が難しいのかもしれません。
仕事で必要になる、英文の翻訳を除けば、ですが。

2012年8月30日 (木)

旅の安全

先日、ルーマニアで日本人女子学生が殺されました。

いやあ危なかったね、とかすごかったねえとか言えるのも生きて還ったからこそ。
死んでしまっては何にもなりません。そこだけはそれこそ死守しないと。

フライトの関係で見知らぬ地の空港に夜中に放り出されるというのはよくある話です。
ぼくの場合、バングラデシュのダッカとかケニアのナイロビなど。

ダッカは出口の扉を開くと暗闇のなかにサーチライトで照らし出された、
黒い顔をした人の群れと目つきに気圧されて引き返してしまいました。
運良く、空港内のシェラトンホテルの窓口があいていたのでお世話になることに。
ナイロビの時もツーリストインフォメーションが開いていたのかな。
やや高めだったけどそこで宿を決めて呼んでもらったタクシーで向かいました。

あとは危険度は低かったですが、チェコのプラハやタイのバンコクとか。
プラハでは空港バスがなくなっていて唖然としたのですが、
地元の人の群れについていったら、市バスと地下鉄で街に出られました。
バンコクでは空港の鉄道駅が見つからず、随分迷いました。
結局見つかりましたが、見つからなかったら空港で一晩過ごしたでしょう。
下手に動くよりはその方が安全に思えました。

--
パリの空港でも過去、ルーマニアと同様の事件があった模様。
夜中のタクシーには注意しましょう。

2012年8月29日 (水)

共生

ニホンカワウソが絶滅種と認定されました。Otter

ぼくの実家のある横浜市青葉区は昭和40年代前半より造成された街で、
当初はイタチやタヌキなどがまだ見られたらしい。

ぼくが物心ついてからは、せいぜいヘビくらいでしたが、
昆虫にまで目をやると、カナブン、クワガタ、カミキリムシ、カマキリ
バッタ、蝶、トンボ、アメンボ、オタマジャクシ、ザリガニと、生き物が豊富でした。

ニホンカワウソの減少は乱獲を主な理由としてあげられていますが、
全体として見ると、とにかく手つかずの自然というものがなくなってしまった。
今の住宅地にも緑はあるのですが、自然にできた池、水たまりや、
人が容易に入っていけない雑木林などはなくなりました。
人間が意図しなくても野生種というのは減っていくものです。

今の日本で本当に人間の脅威となるのはウィルス等を除くと
沖縄奄美のハブと北海道のエゾヒグマくらいでしょう。
その他の動物は害獣指定されていても、共生できないことはない。

インドでは街中で普通に牛、犬、ヤギ、猿が人間と共存しています。
それは特に人間が保護しようとしたり、獣が依存したりすることはない
いわば無関心のなかの共存です。まあ実際は牛に餌をあげている人はいるようですが。

この程よい距離感というのは、日本などでも応用できないだろうか。
ぼくらが子どもの頃にはまだ野良犬がいました。
野生種というわけではなく、共有犬みたいな存在でしたが、
雑木林も多く残されていたあの頃の緩い感覚を取り戻すのは難しいのでしょうか。

2012年8月28日 (火)

アルバム

ぼくは最近はアルバムをつくることもしなくなりました。R0011708
たまに昔無料でもらった紙製のミニポケットに放り込むくらい。
だいたいデジカメにかえてから、プリントにもまともに出さなくなりました。

例外は毎年恒例の旅行で、連れ合いがカメラを持っていなかったのでかわりに、
なるべくかわいらしいアルバムを捜してきて、デザインをちょっと凝る。
普段、プレゼントとかあまりしないので、その代用だったりもします。

画像の左上からモルジブ、北欧、オーストラリア、東欧
中段、屋久島、カナダ、タヒチ、フランスと下段、ペルー、インド。
見返すと、北欧の頃と今ではふたりともだいぶ顔つきが違います。

今年から連れ合いも自分で写真を撮るようになり、
今回は写真の8割方は彼女が撮影したものです。
しかしツーショット写真をお願いするときに、旦那と奥さんがそれぞれ
別にカメラを託すのは、どうも違和感ある光景だったようです。(笑)

2012年8月27日 (月)

旅と病

今まで世界各地をまわって、お腹を壊したのはインド2回に、バリ島、エジプトのみ。R0011704
まる1日宿で休養したのは前回と今回のインドだけだし、医者にかかるのは今回が初。
それだけインドは強烈なのか、またはとにかく水があわないということなのか。

前回のインドはダッカからコルカタに入って、ブッダガヤ、バラナシと移動し、
やはりその辺りから体調を崩しています。
休養も兼ねてカトマンズへ飛んで、ポカラなどでのんびりしたのですが下痢は治まらず、
結局その状態でデリーへ戻り、アグラ、チャンディガール、ジャイプール、ウダイプル
アーメダバード、ムンバイと移動する間、身体がきつく感じられる時もありました。

ひどかったのはムンバイから日帰りで向かったエローラ、アジャンタの石窟寺院で、
これらの遺跡はひとつひとつがセパレートしていて、次の部屋へ行くのに、
わざわざ1度、外廊下に出なければなりません。
ここにわずかながらの段差があるのですが、この1歩が登れず、随分パスしました。

お腹は既にしぶり腹と呼ばれている状態で、常に炎症を起こしている感じ。
結局ムンバイに戻ってからエアコン付きの宿に移動し、次の日はまるまる眠っていました。

その後、ナイロビに飛んで全く違う環境に身を置くと体調は嘘のように回復しました。
まあまだ30歳と若かったということもあるのでしょうが、
今回のように戻って1週間経っても症状を引きずっているということの方が想定外です。

2012年8月26日 (日)

インド人ガイド

今回ついた、インド人ガイドの日本語は流暢で、コミュニケーションに難はありませんでした。Guide
昨年のペルーにもいましたが、インドの方がその絶対数が多い感じがします。

ガイドに代表される観光を生業としているものにとっては、
客の本国の旅行代理店とつながりを持つというのは重要なことです。
継続的な契約が得られれば、まず食いっぱぐれることはない。
逆にそれがないと、財布の紐の硬いバックパッカーに群がるを得ず、
数少ないチャンスに稼ぐために、客をだます輩も出てきます。

今回のガイドだった人は、肌の色が濃いアジア人で、おそらく原住民。
インド史で言うと披支配層にあたり、もとイスラム教徒だと語っていたところを見ると、
もともとのカーストはだいぶ低い方にあったのではなかろうか。

ただ、日本人の好む誠実さや細やかさを見せ、ユーモアのセンスもあるので
かなりの努力家で、いい腕の持ち主ではあるでしょう。
おそらくは社長のような存在で、複数のガイド、ドライバー、リキシャワーラー、
土産物屋をとりまとめています。

勝ち組と言ってもいいでしょう。
ただそんな彼にもインド特有のガラス天井があるように見えます。
彼が今回のトラブルでコントロールしたと強調した、高級ホテルと医者。
ぼくからはそれぞれが総合的に利潤を追求し、職責を果たしただけだと見えました。

一介のガイドと生粋のエリートというのはおそらくどこまで行っても並ぶことはない。
それがインドのカーストなのかもしれません。

2012年8月25日 (土)

乗鞍DNS

今年の全日本マウンテンサイクリングin乗鞍は出走断念します。
ヒルクライムのDNSは初めて。理由は体調不良です。

インド旅行で発症した下痢こそ20日を最後に抑えられていますが、
併発した風邪の症状、発熱、悪寒、節々の痛み、鼻炎などは、
週の後半になっても、しつこく波にように襲ってきます。

インドで処方された抗生物質と下痢止めは飲みきりました。
この先は日本の薬でどこまで対処できるかです。

まあ、もともと無理めなスケジュールではありましたが、
連れ合いの休みが取れる時期が限定されるので、仕方ありません。
おまけに今回は、昨日、母親が手術を受けているので、
家にいられるならその方がいいだろうという判断もありました。

今週末は天気の予報はよく、初めて晴れた乗鞍を登れたかと思うと残念です。

2012年8月24日 (金)

海外旅行保険

今まで日本を飛び立つこと数十回。Hoken
その度に行きの空港でバラ掛けの海外旅行保険を掛け捨てしてきたのですが、
実際に保険金を請求するのは、今回が初めて。

今回はネットで加入した三井住友海上の「ネットde保険@とらべる」というもの。
請求する治療・救援費用は1000万円まで、携行品損害は30万円までとなっています。
これらがまるまる支給されるわけではなく、かかった費用の領収書を添付して、
基本はその額が支払われます。
携行品損害については修繕サービスというのがあり、お金を支払うかわりに、
損傷したものを送れば修理して送り返してもらえるというものです。

今回は渡航先がインドだったので物価はかなり安く、治療費用立てかえ分も、
日本円にして1万円未満に納まりました。
携行品損害のスーツケースのキャスターも,部品が揃えば数千円で修理できるでしょう。

せっかくの支給の機会なのに、額が小さくて残念ですが、こんなものなのか。
1000万円まで補償!と言われると、すごいものに加入している気分になっていました。

2012年8月23日 (木)

インド6日め

ツアー最終日はインドの国際空港内で迎えました。R0011702_1
インドはとにかく手荷物チェックが好きというか、何度も受けました。
最後の最後、インド出国の際の手荷物検査は最もひどかった。

大きなバッグのなかに小さなバッグを入れていたのですが、
トーチがあるだろう!と言ってくる。ミニマグライトね。
捜すのにちょっと手間取って、はいこれと見せましたが、興味なし?
その間、他の係員が荷物をひっくり返していて、ワーヤーロックを取り出す。
なにそれ、問題ないでしょ?と思っていたらライトとロックを渡され、
残りの荷物を再びX線にかけていました。この間ぼくの後には長蛇の列が。

だいたい東洋人や西洋人が自爆テロを起こしたなんて話は聞きません。
あの嫌がらせのような厳しさは国内に向けてほしいですね。

出国したあとはなんともいえない解放感がありました。
まだ飛行機の出発まで十分な時間があったので、
連れ合いと交互に休みながら土産物屋を見て回ったりしていました。
円に換金できなかった600Rsはなんとか使い切りました。

体調の方はようやく便が固まりはじめ、尿も出るようになっていました。
トイレに行ったあとはきついズボンの腰ボタンもはまるようになりました。

1:05発の飛行機は30分ほど遅れて出発。まずは香港へ。
帰りはバンコクに寄らないので余裕はありますが、それでも全14時間以上はかかった。
香港での乗り換えもまたタイトそうだったので急ぎましたが、
結局、香港発の便に遅れが出て10:35のところ、11:30出発となり、
急いで損した感じ。

時間があいたので空港見学など。ちらと見た感じではフォスターなのかな、
と思いましたが帰って調べると、基本設計がフォスター。実施、監理は香港の事務所によるらしい。
ディテールはとてもよく納まっていたので、いい協力事務所に会えた様子。
大きなデザインではヴォールトの斜め方向のラインが強調され、空間に躍動感があります。
八代の伊東さんによる未来の森ミュージアムに近い感じを受けました。

さて、ようやく成田便の搭乗が始まるわけですが、ぼくはもう疲れています。
乗り込むと、機内の温度が低い!寒い!着替えは預けてしまっています。
ブランケットが欲しいと乗務員さんに頼むももう残っていないとのこと。
席は機体部のほぼ中央。窓から吹き上げられた冷気が束になって落ちてきます。
しかも座っている分、床面に近く厳しい。通路を立って歩く乗務員にはわからないのかな。

それでも2時間くらいは耐えられました。食事の時は手元がかじかんで不自由なので、
連れ合いにフォローしてもらいました。ストールも彼女に借りました。
一気に全体が冷えた身体は、反動で逆に熱を持つようになります。
明らかに熱が出ている。しかしどうにもなりません。

列車やマイクロバスなら2時間というのはさしたる時間には感じません。
おそらく視覚的刺激があることと、縛られていないということで。
飛行機の最後の2時間というのは、環境が悪ければ最悪です。
逃げられない、声を上げられない、身体を動かせない、変化がない。

最後には呼吸にまで行き着きました。冷たい空気が入って暖かな空気が出て行く。
これはもうほとんど瞑想法の世界です。しかしその集中も切れる。
成田に着いたときにはもう身体と精神は回復不可能な状態にまで追いやられていました。
見かねた連れ合いがスーツケースを引き、新宿からタクシーに乗ろうという。
うん、助かるけど先々どうなるかは全く見えていませんでした。

成田エクスプレスに乗って新宿に着く直前、トイレで小用をたしたら少し楽になりました。
車内では、日本って静かで微笑みがあっていい国だなーって、ずーっと思っていました。
もしかしたらインドと言うのは、対極にある存在なのかもしれません。
20時前に帰宅したら、ほとんど何もできずにベッドイン。こんなの初めてだ。

インド5日め

目が覚めたのは夜中の0時前後だったかと。R0011700
部屋の電気はついていて、連れ合いは隣で眠っていました。

と、腰部まわりで違和感があり起き上がってみると、
ちょうど腰があたる部分のシーツが茶色く汚れていました。
下着のなかを見ると、そこはもう下痢便まみれ。

どう感じたのか記憶がありません。ただ淡々とバスルームに行き、
排便し、洗面器に水をはって下着を洗います。シーツも拭き、タオルを掛けます。
ひと通り終ったところでまた記憶が飛びます。

次に起きたのは1時頃で、状態は上記したものと全く同じ。

結局同じことを一晩で5回繰り返しました。替えの下着がなくなる寸前。
最後は5時過ぎ。連れ合いの気配を感じて起きました。
とりあえず一通りの説明。ズボンとパンツ買わないとね、と言われました。
ぼくはそれより18時間後に迫った帰国便内で症状が出るのが怖かった。
エコノミークラスの狭い室内で脱糞するなんて考えられない。

とりあえず6時まで待って前日の医者の携帯電話にかけます。
日曜の早朝だったので迷惑だったかと思いますが、対応はしてくれた。
が、どうも電話で済ませたがっているようでなかなか行くと言ってくれない。
ここは食い下がって、何時に来てくれるのか、下痢止めの薬が欲しい、
と、何度も繰り返すと、9時にもう一度電話をくれと言われました。

で、もう眠るわけにはいかなかったので、椅子に座った状態で時を待ちます。
連れ合いは食事に出かけました。ぼくはパス。
果たして9時に電話は鳴りました。が、14時くらいに向かうとか言ってる。
それでは12時のチェックアウトタイムを過ぎてしまうと伝えたところ、
じゃあ11時で、となりました。

連れ合いのこの日のツアー出発は9:15頃。ぼくはギブアップを宣誓し、
ツアーには彼女ひとりで参加してもらいました。

11時までは腹這いになって眠ったりしていました。
チャイムが鳴り、ドアを開けると昨日と同じ顔が立っていました。
とりあえず2人とも立ったまま状況報告をし、汚れたシーツも見せました。

いろいろ聞かれましたが、今日の朝食を食べていないことを話すと、それはよくない。
薬の吸収のために大量の炭水化物と水が必要だと言われました。
便の量の推移も聞かれ、減ってきていると答えると、ああ悪くはなってきていないのか。
尿に関しても聞かれ、そういえばしばらく出ていないことに気づきました。
水分排出機能が腎臓より腸に移り変わっていたのかも。

下痢止め(zifi200)が処方されたあと、医者はどこかへ電話。
相手はホテルロビーだったようで、チェックアウトは延長して、
今晩21時まで滞在できると言われました。無料でです。
さらにこのときベッドメイクが入り、医者が何やら説明していました。
寝具のクリーニング代なども不要となりました。ありがたい。


ランチは取らねばと医者に1階のレストランまで連れて行かれました。R0011699_2
で、店員さんに幾つか指示を出していました。オーダーでしょう。
この段階で医者は帰ることに。入院とかしなくて大丈夫ですか?と聞くと、
問題ない、とのこと。とりあえずほっとひと息。
出されたメニューを食べるのですが、これがなかなかお腹に入っていかない。
結局、2割ほど残して終了。この食費は最終的に請求されませんでした。

インドの医者って力持っているんだなあ、などと思いながら部屋へ。
戻るとガイドやH.I.Sインド支店から電話が入りました。
後者は日曜日は休みなはずでしたが、ありがたかった。

さてあとは日常的に飲む、4時間ごとに食べるを遵守し休むだけ。
ガイドがいつ迎えにくるのかは未定。

高級ホテルの6階の1室。空調はきいていて室内にインド的なものはない。
街の騒音もほとんどシャットアウトされ、現地の言葉にも接しない。
そこはもう日本だと言っても違和感はなかったでしょう。
デリーであってもフロントにタクシーを呼んでもらえば、スムースに帰国できる。

少し安心して眠りにつきました。

18時頃医者から電話あり。一応大丈夫そうだと答えておきました。
ガイドから電話があったのは19時過ぎ。やれやれ、やっとか。
1時間後にツアー一行ご到着。客室へは連れ合いが上がってきて、
新しいズボン、パンツ、長袖シャツを頂きました。

が,このズボン、小さくて全然入りませんでした。
病気でお腹が張っていたのが主な理由でしょう。
無理矢理履くと腹部に痛みが走ります。

仕方なく腰パン状態でOKとし、1階ロビーに降りていきます。
チェックアウトをしている間、ガイドがちらちらと様子をうかがいにきます。
やあ、あのとき医者を呼ばなければこんな元気にならなかったよ、とか
部屋の延長料金はほんとは1万くらいしたんだけどね、とか。

ああ、チップが欲しいのね。その額をめぐってぼくと連れ合いにはずれがあり、
結局、その中間を取った額を渡しました。チップとはいいがたい高額。
最後の最後でガイドの下心をかいま見ることになりました。

さて、あとは空港に向かうだけ。着いたのは21時頃でした。
みんなで記念写真を撮って、ガイドとはお別れ。
空港内では両替をしたあとチェックインしましたが、
移動するときに下腹部が張って痛い。

ま、なにはともあれ、無事に出国できますかね。

2012年8月22日 (水)

インド4日め

おそらく4時半頃集合だったかと思います。ガンジス川、日の出のボート乗船。R0011694
前日、リクシャで帰った路をマイクロバスと徒歩で進みます。
ダシャーシュワメード・ガート。既に大勢のインド人が沐浴をしています。

しかし河に目をやると、なんだか荒れているような感じ。
案の定、水量過多のためボート乗船は中止となりました。何のための早起きだ?
仕方なく心を観光にスイッチ。でもそんなに見るものもない。

一度ダシャーシュワメードを離れたあと、北上してまた別のガートへ。
ここはひとが少なく、ダシャーシュワメードを遠望できます。
さらにこのタイミングで日の出になったので、しばらくは撮影タイム。

でもなんかなあと思っていたらもうひとつ来ました!
マニカルニカー・ガート。いわゆる火葬場のガートです。
ここはたしか前回も行けなかった。見たいと思っていたところでした。
が、このガートへの道は長く、細く、不衛生です。
連れ合いはここにもっともインパクトを感じたらしい。悪い意味で。

しばらく火葬場の麓で待機していましたが、ガイドがようやく行きたいか聞いてくる。
圧倒的多数で見学決定。費用は薪代の200Rs。
火葬場ガイドに連れられて、火葬場への階段を上ります。

おそらく広さは、うーん、10畳分くらいか。もっとかな。
中央が火葬場で、その周りをぐるりと回れます。ただ熱い。焼けるのじゃないかと思うほど。
焼き場には無造作に頭蓋骨が2つほど転がっていました。
また今まさに焼いているところでは、焼き具合のチェックがされていました。
棒で引き上げられたそれは、頭蓋骨とそれにつながる背骨でした。
真っ黒でしたがはっきりと見えました。意外とグロい…。

その後しばらくは衝撃の余韻に浸っていたのか記憶が曖昧で、
おそらく行きと同じ手法で帰路につき、各自のホテルに着いたのかと。
既に朝食の時間帯だったので、連れ合いは食事をとりにいきました。
ぼくは原因不明ながら食欲が全くなく、しばらく部屋で眠ることに。

起きたのは連れ合いが戻り、朝食の時間帯も終ろうかという頃。
一応食堂までおりましたが、やはり食べる気にならず、
飲み物とデザートのフルーツのみつまんで終わりにしました。

再び部屋で眠りにつき、起きたら昼前。
再集合は12:45でそれまでに昼食をとらないといけません。
が、12時頃連れ合いと食堂まで降りるも、やはりダメ。
目の前の食料を見て気持ちが悪くなるほどでした。
結局またデザート類でごまかして終了。それをおかしいとも感じませんでした。

再集合後は一路バラナシ空港へ。デリーまで1時間強で移動します。
このとき、ガイドが意外な動きを見せました。空港に入る前、携帯電話をかわれと言う。
訳わからずその携帯を耳に押し付けると、相手は日本人女性。
で、インドでの下痢止め薬について、あまりお勧めしない、できれば医者にかかってと言う。
そういえばバラナシに着いた時、薬についてガイドと話しました。
そのときは同行している夫婦の奥様から日本の薬を譲り受けたのですが、
本当ならインドの薬の方が効くんですよね、と。

とりあえず、様子を見てみますと曖昧に答えて携帯は切りました。
その後、空港では明らかに動作が緩慢になり、喉が渇きました。
で、記憶も曖昧になり、デリーでの国内空港の記憶がありません。

次の記憶はデリーの宿に着く直前、ガイドが手を触れてきて調子悪いのでは、と聞いてくる。
うーん、と曖昧に反応し、宿の門から玄関への道中で今度は少し強硬に。
ああ、そうまで言うならいいかと頷いたところ、医者の手配を始めました。

時間は18時頃でしたが20時には来るとのこと。とりあえずは部屋へ。
ほぼ時間通りに医者はやってきました。大きな身体にアーリア人風の面構え。
あとで書類で知りましたが、ホテル嘱託の医師でロンドンで資格を取り、
一時は軍に身を置いていた様子。
形式的に熱、鼓動、血圧などを計測し、舌を見せろと言う。
その通りにすると、よくない。体温が38度を超えているし脈も速い、と。
そうかあ、注射とかしてくれるのかなと思っていたら、飲み薬を処方されました。
沈痛解熱薬(crocin)抗生物質(ofrox-400)経口補水塩(electral)。
その上で飲み方と食事に関しての指示を受けました。治療費は諸々込で3200Rs。

そうかあ、と若干がっかりしながらも、医者が帰ったあと、服薬して眠りました。
ここらへんも記憶が曖昧です。なぜなら…。

インド3日め

この日の朝も早い。4:40には下車する予定です。R0011680
結局ぼくはまともに眠った記憶がなく、ほぼ徹夜状態。
飛行機のビジネスクラスみたい、なんて嘘っぱちでした。
この日の朝に初めて下痢を発症。後々問題になってゆきます。

列車は1時間ほど遅れてMughal Sarai駅に到着。
ここからバラナシまでマイクロバスで約1時間でした。
バラナシに着いてもガートから離れているのでどうも雰囲気にピンと来ない。
ただ道はひどく荒れていました。あといろんな動物が登場する。
ラクダに始まって、犬、牛、猿、ヤギ、豚などなど。普通に路上に点在しています。

まずは各自のホテルへ。庭の広い優雅な宿でした。ここで遅い朝食をとります。無料。
内容はビュッフェだったので、特筆するものではなし。
部屋はバスタブありのダブルベッドルーム。しかしできるのは荷物を置いて着替えるくらい。

身軽な身体で再集合し,向かう先はバラナシ・ヒンドゥー大学。
なかにはヴィシュナワート寺院というものがあります。
履物を脱いで素足での見学になりますが、個人的には引かれるものはなかった。

内覧できないドゥルガー寺院を遠望したあと、インドシルク店へ。
ここもあまり興味を引かれない。玄関あたりをうろついていると、突然の豪雨が。
30分ほどだったかと思いますが、この旅で唯一の雨でした。
連れ合いはまた幾つか買い物をした様子。

そのあとで昼食。前日のものをひとまわり小さくした感じ。
全6皿でしたが、食欲が落ちてきていて半分も食べられませんでした。

次は街を離れてサールナートなる仏跡へ。街はだんだんと落ち着いてゆきます。
遺跡は広い敷地内にぽつんとダメーク・ストゥーパなる仏塔が建っているというもの。
入口近辺で簡単なガイドを受けたあと、フリータイムになります。
が、見られるのは仏塔と奥のフェンス外にいる鹿くらい。
暑いし疲れているのでチャチャッと見て入口近辺の木陰で涼んでいました。

つぎは隣のムルガンダ・クティ寺院へ。ブッダ初転法輪の地。
なぜかガイドが熱心に講話を始めます。ここまでの観光地は入場無料、
ツアー料金に含まれていましたが、ここではドネートしろと言う。
まあ日本円にして30円くらいなのでいいのですが、違和感がありました。
彼らは仏教徒でもないのにブッダを英雄視している感じがしました。
仏教に関しては日本人も素人ではないのですけどね。
内部は戦前の日本人が描いたという壁画があるくらい。
外観は南インドに多いピラミッド状の屋根が興味を引くくらいでした。

その後、日本人女性の名前を冠した仏具用品店へ。
しかし肝心の女性はおらず、インド人による接客が始まります。
数珠がメインのようでしたが興味を引かれず、木製彫刻などを眺めていました。
今回はさすがに連れ合いも購入せず、チャイだけ頂いておいとましました。

バラナシに戻り、今度はリクシャに乗り換えます。
初めてインドの街中に放り出された感じがして気持ちがいい。
ひとがだんだん増えていくなかを歩くのと同じくらいのスピードで進む。
バイクのクラクションに対向するようにリクシャも金属ベルを連打します。まさにカオス。
途中からはリクシャも入れなくなり、そこからは徒歩で進みます。

延々歩いてようやくガートに着いたと思ったら河に降りずに階段を上ります。
そこには特設のステージのようなものがありました。河は見えない。
結構なひとでぎゅう詰めになった会場でようやくパフォーマンスが始まります。
一時流行った韓流スターを思わせる衣装を着た男性らが音楽に合わせ、
火を使ったいろんなパフォーマンスを見せました。プージャーと呼ばれています。
が、個人的な感想を言えば、これはバラナシのイメージとは合わない。
もっと静的なものをイメージしていたのですが裏切られました。残念。

ここからの帰路が大変でした。大勢の観客が一斉に離れ、群衆と化しました。
ガイドは途中からリクシャを拾おうとしていましたがここにも長蛇の列。
仕方なく待って乗りましたが、これが見知らぬリクシャだったらと思うと恐ろしい。
どこに連れて行かれるかわかったものではありませんので。

結局最後までリクシャに乗って、各自のホテルへ到着しました。
夕食はホテルのバイキングとのこと。
高級ホテルと夕食バイキングというのもなんだか変な取り合わせです。
飲み物のセレクトが少なく、カクテルを注文しましたができないという。
ええ、仕方ないなと次候補を検討していたら、今度はできると言ってきました。
なんか英語で理由を話していましたが理解不能。
果たして出てきたものは桃果汁のかわりになんか似たようなものを入れた感じ。ま、いいか。

あとは寝るだけですが、明日の朝も早い。

インド2日め

H.I.Sのツアーは概して朝の集合時間がかなり早く、今回も例外ではなく4:40でした。R0011593
準備を考えると睡眠は数時間しか取れません。これが疲労としてたまっていきます。
この日の朝にようやく同行者の全貌がわかりました。
前出のご夫婦と女性2人連れに男性1名が加わり、全部で7名でした。
パスポートは結局荷物と荷物の間から発見されたらしい。

マイクロバスで向かった先は鉄道駅。ひとがたくさん地べたで眠っています。インドだ!
しかしデリーからアグラへの列車はインドにはめずらしいリクライニングシートで、
食事のサービスも付いていました。どうやらこの列車は特別らしい。
欧米人女性にその席違うよ!と言われて慌てましたがこれは先方の勘違いでした。

アグラの駅に降り立つと、客引きがわらわら寄ってきます。いやインドはやっぱりこれだね。
ツアーだと移動手段には困らず、客引きとの交渉も不要なのがメリットです。
まずは土産物屋へ。トイレを借ります。ここではサリーの貸し出しを行っていました。
と,連れ合いが店のひとに捕まり、あれよあれよという間にパンジャビスーツを買うことに。
ちょっと先が心配になります。ちなみにサリーは結構暑いらしい。

さて、最初の観光地はタージ・マハル。白大理石で葺かれた建物状の墓です。
途中電気自動車に乗り換えたり、手荷物チェックを受けたりして、
ようやくたどり着いたそれはたしかに美しいものでした。
が、内部空間がほとんどないという前回の記憶はその通りで、
果たして建築と言えるかというと怪しい感じはします。
ここで1時間ほどのフリータイムになりますが、案外見るものは少なく
見学後、しばらく前庭の木陰にあるベンチで休んでいたりしました。
ここでは野生のシマリスも見ることができます。

タージ・マハルを出るとポストカード売りがまとわりついてきます。
前回はここでリクシャワーラーにストーキングされ、激怒しながらアグラ城まで歩きました。
今回はマイクロバスで移動。こちらは主に砂岩で葺かれていますが大理石の間もあり。
白大理石に埋め込まれたカラフルな色の石の装飾が美しい。
また、庇を支える頬杖の石の彫刻もよくできています。

ここで昼食タイム。マハラジャターリーのランチです。
なんと直径80センチはあろうかという大皿に15種の料理の小皿が乗っていました。
到底食べきれない量なのですが、あほなのか完食を目指し14皿を平らげたところでギブアップ。
ちょっと気持ち悪くなってしまいました。
味の方はと言うと、うーん。特に好みといった感じではありませんでした。
日本の本格インド料理店とさほど違ったものではなかったかと。

ここから街を外れ、郊外にあるファティプール・シクリへ。
いや、この車の運転が荒いこと。どのドライバーもそうでしたが、
常にクラクションを鳴らし続け、対向車がいてもその車線につっこんでいったり。
事故がなかったのが奇跡だと思えるほどでした。クラクションの嵐はインド特有。


ファティプール・シクリはたった14年使われただけで放棄された街。R0011644
様々な建物により構成されていますが、壁が少なく石造なのに柱構造で
木組みのようなものも見られるのが特徴です。
その装飾は密度が高く、アグラでは1番かもしれません。

帰路で金属装飾やデコレートボールペンなどの売人にまとわりつかれる。
耐えられず女性ペアのひとりがボールペンを購入すると約束以上の金額を吹っかけてきて決裂。
まあそうだな。それがあるのもインドならでは。

この日の最後は大理石工場へ。アグラ城で見られたものがいろんな商品になって並んでいます。
ぼくらの目標はだいたい決まっていて、それは象の置物。
やはりニーズは高いのか、小さな部屋に大きな物から小さなものまで、
無数の象が並べられていました。少し悩んで6000Rsのものを購入。
その際、布製品も見せられ、どう見ても綿なのにシルクだと強弁する店員あり。
大丈夫か?あのお店。

その後、何やらよくわからない個人宅に招き入れられ、チャイをごちそうになる。
ご主人が自分の結婚と家族について話していましたが意味が分からない。
なにをしたかったのでしょうね。もう時間もあまりなかったのに。

ここから一路鉄道駅へ。来た駅とは別のところです。
バスを降りるともう何か怪しげな雰囲気が。
すべての標識がアラビア文字でしか表されていないので、駅名すらわからない。
既に夕暮れ、駅構内ではたくさんの鳥が鳴いていて不気味度倍増。
しばらくは駅の待合室で過ごしましたが、ここには何匹ものネズミが。
この日の夕食の弁当に食らいついてきたようですが、いや勘弁。

列車到着時刻前にホームに移動しますが、ここもいい環境ではない。
警官に連れられて罪人がお縄にされ連行されるのを見ました。
また到着する列車の2等寝台では格子窓の向こうにうごめく、
異様な人々の雰囲気がひしひしと伝わってきました。

列車は30分ほど遅れて到着。心配していた1等寝台も確保されていました。
が、通されたのは4人部屋で先客2名はインド人男性。
ベッドの周囲にはカーテンすらなく、女性が着替えるのは困難です。
車両にはトイレはありましたがスペースは狭く何もできない。
しばらくは先客2名はベッドに上がるそぶりもなく、10時過ぎてからかなと思っていましたが、
その時間になっても状況は変わらず、仕方なく声をかけて上がってもらいました。

用意されていたのは枕、シーツ2枚と湿った毛布、枕カバーと思われるタオルでした。
毛布は触るのもためらわれる状態だったので、間にシーツをはさみました。
着替えはぼくは気にせず、その場で済ませましたが問題は連れ合いです。
一応準備が整って、消灯したあとインド人2名が眠ったのを見計らって決行したらしい。

インド初日

インドに行くのは17年ぶり、2回目。前回は途中で体調不良を引き起こし、辛かった。R0011578

6時前に家を出て、新宿へ。そこから成田エクスプレスで空港第2ターミナルまで。
出発階まで上がってキャセイパシフィックのカウンターでチェックイン。
今回は事前に海外旅行保険に入っていて両替もできなかったので、
いつものスターバックスでまったりします。

出国審査を終えたあと、水とウェットティッシュを購入。
しかし水は香港での乗り換えで没収され、買いなおす時間もなかったのが残念。
飛行機は9:45発の予定が1時間以上、機内で待機させられました。
原因の説明もなし。結果、香港での乗り継ぎはとてもタイトに。

香港で走るように飛び出すと、出口のところでキャセイのひとが乗り継ぎ客を集めていました。
全員揃ったところで手荷物検査場に行き列の途中に割り込ませてもらいます。
果たして30分強しかなかった乗り換えも無事完了。
デリーで向かう便はほぼ定刻通りに出発しました。

次の乗り換え地はバンコクで、ここでは1時間ほど機内で待機させられました。
空から見下ろしたバンコクの家並みは随分きれいになっていて、
寺院がなければ日本だと言われても納得しそうでした。
空港もヘルムート・ヤーンによって新築されトラス+膜の構造がきれいです。

ここからは大勢のインド人が乗り込んできていて、いよいよだなという感じ。
空はだんだん暮れていきます。日本とインドの時差は3時間半。
デリーの空港に降り立った時は既に20時をまわっていました。
飛行時間はトータルで14時間ほど。直行便は8時間半なので随分大回りしたようです。

入国審査を終え、預け入れ荷物を取りにいくとスーツケースから何やら異音が。
確認してみるとキャスターがひとつ破損していました。
仕方なく通常と逆側に荷物を傾けて引くことに。
両替を済ませてゲートを出ると大勢の人が紙を掲げて待っていました。
ちょっと迷いながらも自分らの名前をようやく発見。
後から来るという2組の客を待ちます。

しかし8月のデリーはやはり暑く、汗が滴り落ちます。
空港は建国記念日とあって厳戒態勢。銃を持った警備員が目立ちます。
なのでカモを捜しにうろつく悪人の類いは見当たりませんでした。
と、ここで同行者のご夫婦の旦那さんがパスポートを紛失したらしいとのこと。
奥様の方が空港内に捜しに戻りますが見つからない模様。

1時間近くたっても見つからないので、もう1組の女性2人連れとともに先にホテルに行くことに。
ホテルのチェックイン手続きなどは現地ガイドの方にやっていただけました。
ガイドは基本的に皆日本語は話せます。部屋に着いたのはもう23時頃だったか。
部屋はツインベッドにバスタブなしで、ええ?と思いましたが、
後日再訪したときにはダブルベッドにバスタブありに修正されていました。

2012年8月21日 (火)

インド旅行

5泊6日のツアーでインドに行ってきました。催行会社はH.I.Sで3回め。R0011678

5泊中2泊が車中、機中泊になっているように、スケジュールはハードです。
過去2回のツアーもそうだったので、会社としてそういう方針になっているのでしょう。

今回は日本人添乗員はつかず、すべて現地の日本語堪能なガイドに対応頂きましたが、
全行程で同行してもらえたので助かりました。

ツアーではオプションでホテルアップグレード、寝台1等を選択しましたが、
前者はともかく、寝台1等は不衛生だしプライバシーもなく期待はできません。

往復の飛行機はキャセイパシフィック。たぶん2度目の利用。
行きは香港、バンコク経由で14時間かかりました。
帰路はバンコクには寄りませんでしたがやはり時間はかかった。
また、4回のフライトのうち2回に1時間程度の遅延が発生。
まあ航空券はおそらく安いのでそう文句も言えませんが。

お金はデリーの空港で2万円両替。でもほとんど使わず、
帰りに同空港で再両替したところ1000Rs単位でしか受け付けてもらえず、
レートもとても悪かったので、お金は使い切ることを勧めます。

旅程は以下の通り
・8月15日:成田-香港-バンコク-デリー
メトロポリタンホテル・ニューデリー泊
・8月16日:デリー-アグラ アグラ観光
アグラ発寝台列車車内泊
・8月17日:バナラシ着 バラナシ、サールナート観光
ゲートウェイホテル・ガンジス泊
・8月18日:バラナシ観光 水量が多くボートには乗れず バラナシ-デリー
メトロポリタンホテル・ニューデリー泊
・8月19日:デリー観光
深夜便でデリー発機中泊
・8月20日:デリー-香港-成田

個人的な出来事
8月17日朝にバラナシに着いた段階で一睡もできず、下痢が発生。
8月18日にはだんだん食物を受け付けなくなってくる。発熱あり。
同日、飛行機でデリーに着いた段階で医者にかかることとする。
夜、処方された薬を飲むと意識が飛び、気がつくと下着や寝具を
汚してしまっているということを5回繰り返す。
8月19日早朝に医師に連絡し、11時に往診に来てもらう。
この日の観光はすべてキャンセルし、ホテルの1室で療養。
下痢は治まり止まっていた尿も出るようになってきたが、
その晩からの帰国便の香港-成田間の機内がとても寒くブランケットもない。
体温調整機能が落ちていたので、指先がかじかんで食料すらまともにとれない。
やがて全身に風邪の症状が現れ、心身ともに疲弊しきって帰国しました。

2012年8月14日 (火)

本日の画像

ロンドンオリンピック、終わりました。80010185
時差の関係で朝の3時過ぎからの競技が多く、
いつも起きている時間帯ではありましたが、
朝から集中するとやはり疲れがたまるのか、夏バテ気味です。

そんななか、明日から旅行。インドです。
大丈夫かなあ。特にお腹が心配です。
体調崩すと旅も楽しめなくなりますからね。

なので、日記の更新もしばらくあきます。
では、また。

2012年8月13日 (月)

HOUSE H

藤本壮介さんによるHOUSE Hを見てきました。R0011576
本当は箱が入れ子になっているHOUSE Nを見たかったのですが、
場所が大分とのことで果たせず、そんなときWebで意匠の似たこれを発見。

2009年の作品で記憶にありませんでしたが、どうやら同区内にあるらしい。
ならばと唯一手がかりになる遠景写真1枚から場所を推測し、
最終的にはGoogle Mapの衛星写真で特定して固定車でGO。

3層のコンクリート打ち放しの箱に枠なしのFIX窓がランダムに開いている
というデザインですが、さりげなく建っていて違和感はなく、
コンクリートの仕上がりもきれいでした。
多くの窓が乳白ガラスなので、プライバシーも気にならない。
ただ、南と西からしか通気がとれないので、暑いかもしれません。

図面を見るとまず全体平面を田の字に4等分して、手前の2室はリビングなど3層に、
奥の2室は寝室、浴室などで4層に分け、全部で14の箱で構成されていて、
1階の2箱はガレージに、3階の2箱はテラスになり外部に開放されています。
箱と箱の間は窓のように四角い穴をあけ、木製階段でつなげています。

グリッドプランというと西沢立衛さんの船橋アパートメントを想起しますが、
この家ではそれを上下方向にも適用し、トップライトやガラス床、
吹き抜けや浴槽などで床面にも四角い開口を設けています。
船橋のコンセプチュアルで禁欲的雰囲気はここにはなく、
木製階段や微妙なレベル差を使って魅力的なワンダーランドに仕上げられています。
やっぱり腕あるなあ。

ただ、グリッドプランの特徴である回遊性はなく、動線は基本的に1本だけ。
玄関-キッチン-ダイニング-リビング-寝室-バスルームという並びは、
2年後に発表されたHOUSE NAとそっくりですが、水納まり、構造、
素材耐久性、温度環境、プライバシーなどでかなり無理しているそれよりは
だいぶ無難にまとめている感じはしました。

ちなみに、この寝室を通ってバスルームへという動線は、
ぼくの自邸でも採用していますが、見に来られた雑誌編集者の方に、
「子どもができたらどうするのですか」とダメ出しされました。(笑)
もちろん使い方でどうにでもなります。

2012年8月12日 (日)

建築ウォッチ

建築を見て回りはじめたのは大学4年の時です。Machiaruki
東京と横浜の住宅が中心でしたが、1年でかなり発掘しました。

その後就職して2番目の事務所では、建築MAPの元祖版のような
都心の西側を中心としたデータが手に入り、随分役に立ちました。

独立して事務所を構えて数年後に正式に建築MAPが出版され、
住宅も含めて、誰でも名作を見に行ける環境が整いました。

で、今はインターネットの時代、場所非公開の建築でも、
検索によってはヒントを得て、見られたりします。

環境が整うにつれ、ぼくも建築を見て回ることがまた増えてきましたが
同じような建築マニアが、ネット上には何人かいます。

そのうち、もっとも充実しているのがここのサイト。
東京 街歩き 街で見かけた建築

都内だけでも実に550軒以上。今もパート2として増え続けています。
あー、これ雑誌で見たことないけど誰なんだろうと思っていた建物が
ほとんど網羅されていました。しかも竣工年月、施工者データまであり。

この前のコマツナギテラスなど、雑誌発表前に掲載しています。
でもいったいどこから情報入手しているのだろう?
JIAとかにデータが上がっているのかな。それでなければ編集者なのか?

2012年8月11日 (土)

悔し涙

なでしこジャパンが五輪決勝戦で敗退し、みんな涙を浮かべていました。4978bf7d

鮫島選手は「このメンバーでは最後かと思うと」と話していましたが、
宮間選手は「負けて悔しくて泣きました」と言っていました。

ぼくの青少年期は涙とはほど遠く、高校で理不尽な校則に対して、
涙の抗議をしたぐらいしか記憶にありません。

そんなぼくも歳を重ねるごとに、涙もろくはなっていきました。
いちばんくるのは離別、死別関係。動物が絡んでくるとよりやばいです。
ネロとパトラッシュの最後のシーンはいつ見ても号泣ものです。
いわば悲しみの、もしくは悲しみの共感による涙ですね。

一方、嬉しさや悔しさの涙とは今でも無縁です。
共感することはありますが、コンペで勝って泣いたり負けて泣いたりなんてありえない。

後者については、人間がもともと持っている涙で、不快なことがあったり、
欲しいものが手に入らなかったりして泣く、赤ん坊のそれと同じと言えるでしょう。
ぼくらが子どもの時は、そうした涙は幼く、みっともないものだと教えられました。
それゆえかぼくは泣く子どもというのがとても苦手なのですが、
今はどうなのでしょう。

ただ、スポーツ選手は動物的闘争本能を呼び起こすことが求められるので、
こうした感情、悔しさを抑え込むことはよくないのかもしれませんね。

2012年8月10日 (金)

コマツナギテラス

今月号の新建築誌の集合住宅特集に収録されている佐藤光彦さんによる作品。R0011564
ネット上でたまたま所在地がわかったので、昨日見てきました。

雑誌で見た時の感想はとにかく透け透けで、住めるの?
建物はコルビュジェの提唱したドミノ建築をそのまま建ち上げ、金属メッシュで覆った感じ。
全周をバルコニーが走り、住戸部分はほとんどが透明のガラス張り。
写真ではメッシュの仕上がりムラも気になりました。

実際の建物は意外と小さく、街並にとけ込んでいましたが、
近づいていくと、住民の生活感がダイレクトに伝わってくる感じがしました。
メッシュは全戸に張り巡らされたカーテンなどの存在感に押されて目立たず、
施工はきちんとなされていましたが、視線を制御する効果はありません。

バルコニーにエアコン室外機は見られましたが、やはり暑いのか、
ほぼすべての住戸で窓が開いて通気がとられていました。
このバルコニー、隣戸との間に隔壁がありませんが、
プライバシー、もしくは防犯上気にならないものなのでしょうか。

立地は都心に近く、比較的ステイタスのある場所です。
この集合住宅はコーポラティブハウスだそうですが、
住民がこの生活をカーテンでくるんだだけのような仕上がりを
イメージできていたのかは疑問です。

だいたい作者はもともとこんなキャラではありませんでした。
佐藤さんは伊東豊雄事務所出身なので馬込沢の家をイメージしたのかもしれませんが、
あれは個人宅だし、今はクローズドに改装されてしまっています。

むしろ西沢立衛さんによるガーデン・アンド・ハウスの方が近いかも。
言葉は悪くなりますが、暴力的な露出狂。氏の場合は確信犯。
その先にいったい何を期待しているのだろう?

--
あ、それとこの建物には切妻屋根2層の大きなペントハウスがあります。
写真では意図的に外しているようですが、これもどうかと。

2012年8月 9日 (木)

旅の予習

旅の予習はしないタイプです。Image147
必要最低限の情報だけ入手して、あとは現地やそこに向かう飛行機のなかで調べたり。
そのかわり、復習はきちんとします。

実物を見るまでは視覚的刺激が少なく、モチベーションが湧いてこない。
無精だと言えばそうで、せっかく行ったのに見なかったところがあったりしますが、
一方で、何の先入観もなく体験したいという気持ちもあります。

一昨年行ったフランスのラ・トゥーレ修道院では、駅からのアクセスも調べず、
たまたま一緒になった日本人の方についていきましたが、
彼は修道院の見学時間を把握し、予約までしていたのだっけ。

昨年のペルーのマチュピチュ遺跡では、ツアーで同行した母娘さんは、
遺跡の大きな地図を用意していて、見学コースでまわらなかった場所を、
フリータイムに効率的にまわっていました。

それに対してぼくは、沖縄に金環日食を見に行ったとき、
行きの飛行機のなかでガイドブックを読んで竹富島に興味を引かれ、
急遽、沖縄空港から石垣島へのチケットを買ったのですが、
その出費が予想外で手持ちの金がなくなり、銀行でおろそうとするも、
沖縄に都市銀行はほとんどなく、ようやく1軒、第一勧銀を見つけ、ほっとしたのを覚えています。

また世界一周をしたときに、スペインからアメリカへの航空券を確保しないまま出発し、
あるだろうと甘くみていた格安航空券を扱う店がなかなか見つからず、
実家に国際電話をかけて、送金の準備をしてもらったこともありました。

そうした苦労をしながら懲りずにいまだ姿勢を変えていないのは、
それもひとつの思い出だととらえている面があるからかもしれません。

2012年8月 8日 (水)

コラム掲載

5月25日の日記に書きました、執筆がようやく日の目を見ます。Architectsroom

旭硝子のサイト「アーキテクトルーム」にコラムを掲載させていただきました。
初心に立ち戻って、空間の魅力について書いてみています。
お手すきのときにでもお目通し頂けたら幸いです。

https://www.asahiglassplaza.net/gp-pro/column/hello/room/topic/712.htm

プロフィールページにもリンクが貼られているので併せてご覧ください。

それにしても日本の建築家の多いことよ。
このサイト、10年前から始まっていて、ぼくが712人目に当ります。
で、直近に掲載されている方のプロフィールなどを見ても、
みなさんしっかりと実作を残されている。

日本の住宅地の街並の95%はハウスメーカーと建て売りでできています。
残りの5%のシェアをこれだけの人数で奪い合うのだから大変なわけだ。

2012年8月 7日 (火)

サッカー

ロンドン五輪サッカー日本女子が決勝進出でメダル確定とのこと。Resize2
強化試合などでは結果が出なかったのに本番でここまで上げてこられるのは流石です。
決勝では鉄壁のディフェンスを見せてほしい。

ぼくがサッカーという競技に触れたのは、たぶん小学5年生のとき。
同じ登校班だった同級生2人が地域のサッカーチームに入り、
それが当然のような流れだったので、ぼくも通いはじめました。

練習は登校前の1、2時間だったか。
サイドキックによるパスに続き、ドリブルの練習。
そしてドリブルでサイドを上がったあと、センタリングという段になって、
自分がまるっきりできていないことに気づきました。

だいたい、自分がコートの中のどこにいてパス相手はどれで、
ということすら把握できず、パスも思った方向に全然飛ばない。
おそらく1、2ヶ月しか続かず、脱落者第一号だったのではないか。

大学生のとき、五輪かワールドカップの中継をテレビで見て、
そのときもやっぱり自分には無理だと思いました。
上から撮った映像を見ていても、オフサイドの判定すらできなかったので。

サッカーに限らず、球技全般においてぼくの能力は惨憺たるものでした。
それを思えば、建築の才能ないとか愚痴るのは甘っちょろいことなのかもしれません。

2012年8月 6日 (月)

2位

2位じゃダメなんでしょうか、という話題になったセリフがありますね。R0011531

オリンピックに関して言えば、2位でも十分だと思います。
特に日本人の体格差が不利に働くような競技においては。

1位のすごいところは、そこに圧倒的な実力者が含まれているということで、
東大には天才と偏差値ぎりぎりの努力者が混在しているのと似ていますが、
後者と東工大、一橋のトップでは、実力は逆転しているかもしれません。

建築のコンペでは1位は建ち、2位はプロジェクト止まりという大きな差がありますが、
本当に革新的な次点は語り継げられ、キャリアの一部となることすらあります。
ラ・ヴィレット公園のコールハース案や青森県立美術館の藤本壮介案などがそうですね。

一方、人生には楽しんだもの勝ちという側面があります。
日本の柔道選手が銀メダルで悲壮な表情を浮かべているのに比べ、
水泳選手が銅メダルでも満面の笑みを浮かべているの見ると、
柔道選手は人生で損しているなと感じます。

2位でもいいんです。銀メダルでもそれは世界にひとつしかありません。
その結果をポジティブにとらえて自信をつけていく方が大切なように思います。

2012年8月 5日 (日)

遺失物捜索

昨日はT塚事務所主宰の真夏のサイクリングとFCYCLEの夏オフがあったのですが、R0011557
毎度のように結局パス。ともに宴会的要素があって、ついていける気力がこの時期にはありません。
とはいうものの、今回は前者の参加は直前に考えたのですが、高速バスが満席であえなく撃沈。

午前中は連れ合いの部屋の電気がつかなくなったので、電気屋さんを呼んで見てもらう。
結局スイッチの故障。調光を兼ねたものだからやはり壊れ易い。

午後は時たま雨がぱらつくなか、前日に紛失したポンプの探索に走りに行きました。
病院附属のスタバとOD BOXと都美術館に行きヒアリング及び周辺調査をしましたが見つからず。
これはもう仕方ないね。誰かが持ち去ったかな。

上野方面に行く時は、最近は四ッ谷-飯田橋間で外掘通りではなく、濠の内側の小径を通っています。
木陰があって涼しいし、今は蝉の合唱がすごいです。お勧め。

2012年8月 4日 (土)

法政大学,お前もか!

近年、学習院大学の中央教室や村野藤吾による早稲田大学文学部33号館などが取り壊されてR0011558
話題になっていますが、昨日の帰路で見かけた大江宏による、法政大学の55年館、58年館も
建て替える予定があるそうです。

http://www.55-58saisei.sakura.ne.jp/data/suggestion/20100625/suggestion.html

法政大学校舎は昨日初めて見ましたが、白黒の独特な割り付けの和風カーテンウォールや
大江らしくはないがヴォールト屋根が華やかなエントランスなど、
素人の目から見ても美しく、取り壊しを躊躇するものでしょう。
それがなぜ。

大学は建築の文化的側面を教える場なのではないのか。
多少使い勝手が悪くても、耐震性に不安があってもまずは補修を考えるのが筋でしょう。
歴史的建築物を持つ大学は日本では少数派なのだからそこのところを自覚してほしいです。

2012年8月 3日 (金)

上野の都美術館へ

昨今の暑さによるものか、気持ちが滅入ってきてしまったので、R0011546
気分転換がてら、上野の都美術館まで固定車で走ってきました。

開催されているのはリニューアル記念展で、生きるための家展。
バリアフリー化でエレベータとエスカレータが増設された模様。
展示は公募により提案された159案のなかから39案をセレクトしたもの。
大賞に選ばれた作品が原寸で再現されるということで話題になりました。

が、原寸になってもマテリアルが出てくるわけもなく、
逆に外皮のガラスが省略されていて、やはり模型っぽいし、
もっとも傾いた最上階の屋根が省略されている一方、
居室であるLDKとベッドルームの床はフラットなので普通に見えました。
模型を上から見る限りはラディカルなんですけどね。
やはり建築はアイレベルでの検証が必要なのだと再認識しました。

他では倒木をくりぬいて、その都度必要な場をつくっていくというものや、
同じく木の塔に幾つかのサイズの穴をあけ人間を含む動物の巣にするものや、
2枚貝のような家で気分に応じて開口部を開閉できるものといったあたりが面白かった。

でも滅入った気分は回復せず、ぼーっとしていたせいか、帰宅後、
どこかで自転車のポンプとホースをなくしてしまったことに気づきました。
うーん、さほど高価なものではありませんがショックです。
今まで自転車で物なくしたのって自転車の鍵ぐらいだったからなあ。
あれも今年だったか。歳かな。

2012年8月 2日 (木)

五輪柔道

五輪の柔道がつまらない。238
とにかく組もうとしないし、技をかけないし、かけてもかけ逃げだったり
技をかけられてのその返しを狙っていたり。

時間内に決着がつかず延長に入ったり、旗判定になったりというケースが多過ぎ。
谷(田村)がいたころはもっと面白かったように記憶しているのですが、
もう今回の五輪では日本が勝とうが負けようが、不完全燃焼が残るばかり。

あげくに昨日の女子70キロ級の準々決勝。中国選手相手に日本選手が左肘を痛めます。
最初に痛めた時は技の一部だったのか、偶発的なものだったのかもしれませんが、
その後、中国選手は立っている状態で相手の肘をひねりにきます。
これは明らかに技ではない。反則にならないの?

昔、ロサンゼルス五輪決勝で山下選手が脚に怪我を負っていたとき、
相手の選手がそこを攻めなかったという美談があったのを思い出しました。
が、wikiで引いてみると、それは事実ではなかったらしい。
wikiのなかで、山下選手の弱っているところを攻めるのは当然、という発言が引用されています。

はー。柔道にはフェアプレイの精神があるもんだと思い込んでいましたが、
それも幻想だったのですね。がっかり。
もう五輪の柔道は見なくなるかもなあ。

写真はネットで見つけた結婚時の山下選手夫妻。
奥様は銀座の和光に勤めていて、来店した山下選手に猛アプローチをかけたそうな。
へえ、こんなきれいなひとがねえ。

2012年8月 1日 (水)

評価

TEDというネットでも見られるプチ講演番組をこの前、TVで見かけて、2482012
ムーブメントの起こり方、みたいなことを実験映像を使って話していました。

それによるとムーブメントには最初に行動を起こしたひとより、
最初のフォロワー、追随者の方が大切だという話でした。

これは作者と評論家の関係に似ています。
どんなにいいものをつくっても誰かが最初にイイネ!と公に評価しなければ、
その作品は爆発的に売れる可能性は低い。

建築で言うと、特に住宅作品における編集者の立場がそうです。
住宅は場所が明かされないので外観を直に見ることは難しく、
まして内部など、内覧会に誘われたときくらいしか見られません。

何度も言っていますが、建築は写真だけで評価はできません。
学校の教科書に載っているくらい有名で、把握しているつもりだった
コルビュジェによるサヴォア邸を2年前に訪れて新鮮な衝撃を受けたように。

逆につまらない作品でも編集者が何度も取り上げ、フォロワーがついたように見せられると
なんとなく売れっ子建築家のように思えてきてしまいます。
これは10年くらい前に内覧会で見た住宅で実際起こったことです。

ただこれが公共建築となり、一般にひとの目にも触れ、場合によっては
自分が納めた税金の一部が使われたものだったりすると話は別で、
その存在を巡って、一般社会で賛否両論が繰り広げられます。
普段は編集者に保護され、建築界という狭い世界で論議も攻撃も
されたことない多くの建築家にとって、これは結構堪えるようです。

今開催されている、ロンドン五輪においてはアニッシュ・カプーアとセシル・バルモンドによる
アルセロール・ミッタル・オービットなる奇妙な塔がそれに当るでしょう。
wikiによると肯定的意見40%、否定的意見60%とのこと。

設計者は両者とも現代美術、構造設計の世界での第一人者なので、
美術界、建築界では一応擁護の姿勢をとるでしょう。
が、プロジェクト段階から公表され、誰でも見に行けるこの作品は、
最初の評価者からして膨大な数で、誰かがコントロールできる規模ではない。

ぼくも写真で見た限りでは、およそ成功しているとは言えないと思いますが、
展望台の形と全体の色彩コーディネートに留意すればもう少しましになった気はします。

今後の評価がどう推移して行くのか。果たして残されるのかという点も含めて興味があります。

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