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2016年4月 2日 (土)

追悼ザハ・ハディド

手元に一冊の作品集があります。GAアーキテクト5 ザハ・ハディド。61ddxk89wyl_sy484_bo1204203200_

1986年4月20日発行とあります。ちょうどぼくが卒業設計に着手した頃にあたり

実際、アイルランド首相官邸案からの引用をしています。つまり彼女はデビューから

その死までをリアルタイムに共有した初めての建築家ということになるでしょう。

この作品集はドローイングオンリーです。写真は一枚もない。GAなのに。

実際に作品が建つまでは1993年のヴィトラ消防ステーションまで待たなければ

なりません。でも7年というのは短い。当時のAAには本当に建てられない建築家が山のようにいた。

その後の20数年で彼女は十分に作品を残したと思います。こんなに実作を残す人になると

思っていた建築家、編集者、学生は少数ではなかろうか。というのも、彼女は閉鎖的な建築界に

おいて、ことごとくマイノリティであったからです。

非欧州系のアラブ人、イスラム教徒、女性性を売りにしない女性、大学の専攻は数学。

ただお金持ちではあったらしく、当時有名な英国の私学の建築学校AAスクールに進み、

こちらも実作に乏しかったコールハースに師事。卒業するとOMAに入所します。

33歳の時に香港ピークのコンペで磯崎新に没案の中から救い出され1等に。実現はせず。

この審査の時に磯崎はこの案はコールハースによるものではないかと推測したそうな。

そういう意味ではハンディだらけの建築家人生でコールハースとの出会いは逆転の第一歩だった。

以降、アラブの小柄な太った女性は単身で世界に切り込んでいきます。カーディフ・ベイの

コンペでは2度1等に輝くも実現化されず、日本の新国立競技場もキャンセルされてしまった。

それが彼女の精神や身体にどれほどのダメージを与えたのか想像すら付かない。

彼女の建築家人生はまるでターミネーターのようだった。敷地の文脈は無視し、
いいものもわるいものも構わずとにかく建て続けた。まるで生き急いでいるかのように。
そのインパクト至上の価値観に、実際に建てるとなると敵も多かったでしょう。

建築家への評価は数ではなく質ですべきだと思います。

ただある程度の質のものを創りだすまでには数をこなさねばならないという面もある。

彼女の場合、グラスゴーのリバーサイド博物館が実現したのをぼくは高く評価しています。

R.I.P

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