建築家になる
実際に建築された作品を持っていなくとも建築家とみなされる場合があります。
建築に対する独自の造形能力や論理的思考能力があれば、教職として食べていける、
それが1980年代までのAAスクールで、現代の日本の状況はこれに近くなっている。
結局のところ、そのひとが建築家であるかどうかは自称によるところが大きい。
ぼく自身の経験で言えば、この先食べていけるかどうかもわからない
極めて不安定な環境に足を踏み込む(踏み外す)決意をした時からが建築家かと。
ぼくが大学で建築学科に入学してから1,2年はライトもコルビュジェも知らなかった。
将来に対するビジョンは全く無かったと言っていい。というか構造不況の建築界では
就職の選択肢がそもそも狭いという認識だった。
製図の課題で力を入れ始めたのは3年になってからだったと思います。
このころ都市住宅誌のバックナンバーを買いあさり、まず日本の若手建築家を知る。
海外の建築情報源はまだa+uしかなかったから、後回しとなった。
いろんな作家に惹かれ、最終的には象設計集団しかないと思い、当時の東中野の
古民家にプレハブを増築したアトリエに押しかけ、樋口さんと富田さんに設計課題を
見てもらいアドバイスを頂きましたが、入所希望はかなわず。
当時のぼくには象以外は考えられず、ほとんど何も考えないまま当時伸び盛りだった
大手設計事務所に就職します。ここでは労働時間はめちゃくちゃでしたが、
給料はきちんともらえた。家族を持っていたらここにとどまったかも。
しかし流れ作業のようなデザインに疲れきり、会社も妙な方向へ舵を切りつつあったので
4年半在籍して退社。その間にバブルは収束していましたが、建築家の可能性もわかったので
次はアトリエ系に的を絞って片っ端からアプローチをかけました。
磯崎、谷口、篠原、伊東、早川、北山(孝)、ワークステーション、栗生。
当時の好みが反映されてます。安藤さんは行っても学べないし、葉さんは遠いと思った。
結局フェイズに3ヶ月お試しで拾われ、その間に飯田さんから誘われるもこの話はポシャる。
そのまま正所員にして頂き、フェイズには2年半在籍しました。当時の所員はボスを除いて
5、6名で年齢で言うとほぼ全員が30歳以下。労働条件は改善し人並みにお給料も頂きましたが
仕事にムラもあり、いつまでもお世話になるような雰囲気ではなかった。
大手設計事務所を辞めた段階で覚悟は決めたので、この時が建築家としてのスタート
だったと言えるかもしれません。転職活動で早川さんのところに伺った時は、
道を踏み外すリスクを説かれました。一方で公共建築のコンペに単独で出すようになった。
フェイズを辞めた時はもう30になっていたこともあり、転職活動はせずに独立しました。
仕事での評価は受けるも、建築家として成功する自信なんて全く無かった。ただあそこまで
進んで建築家になってみないというのは、とてももったいなく感じてはいました。
今、履歴書を書いてみると最短で独立したように、そうした意思があったようにも見えますが
実際は将来のビジョンなどまるで見えないなかでもがいていた気がします。
にほんブログ村 建築・建築物
« 追悼ザハ・ハディド | トップページ | うつうつ »
「建築」カテゴリの記事
- 照明(2016.12.12)
- 断面で読み解く世界の建築(2016.11.17)
- ゲーリーとコールハース(2016.08.22)
- 生き残る建築(2016.08.11)
- 樹脂材による建築(2016.07.21)
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1932160/64777181
この記事へのトラックバック一覧です: 建築家になる:
« 追悼ザハ・ハディド | トップページ | うつうつ »
コメント