震災

2016年4月18日 (月)

被災建築物応急危険度判定員

熊本の大地震で後に前震とされた地震のあと、自宅の1階に戻りその夜の本震で上階に押しつぶされ

亡くなられるという痛ましい事故が多数起こりました。せめて2階で寝ていたらと思うのですが。

2階や瓦屋根の重さで家が押し潰されるのは、阪神淡路大震災のとき何度も目にしているはず。

しかしあれからもう21年。亡くなった阿蘇の東海大学の学生は知る由もない。

大人が教えるべきでした。また行政は被災した家に近づかないよう呼びかけるべきだった。

住宅の外壁を見て、歪んでいたらそこの筋交いは外れているので耐震性は一気に落ちる。

それは壁に水準器を当てたり、窓やドアが正常に開閉できるかである程度判断できます。
上階の重さに耐えられなくなる可能性が高いので入ってはいけません。

2階建てなら1階が、3階建てなら1,2階ともに押し潰される可能性がある。

いくら木造といえども建築材というのは重いです。これに家財道具の重さが加わるのだから

もうそれは凶器と言っていいでしょう。

もし2,3階に就寝していてもその際、放り出されて怪我をしたり亡くなったりする可能性もある。

床が傾いている場合は、それが地震によるものならば建物全体が傾いている可能性が高い。

すると通常ではありえない力のかかり方をするので、やはり倒壊の可能性はある。

ただ地盤の問題なので、地盤改良してジャッキアップして将来住むようにはできるかも。

木造や鉄骨造は地震や強風に対してある程度変形して力を逃がす構造を持っています。

なので屋内壁の脆い石膏ボードのクラックにはそんなに神経質になることはない。

要は変形して戻ってこなかった時が問題なのです。

都の被災建築物応急危険度判定員になろうかなあ。建築士が2回ほど受講すればなれるようです。
基本はボランティア。少なくともうちの地元ではこうした不幸を未然に防ぎたい。

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2014年8月30日 (土)

GoogleMapで東北被災地の2

復興度合いを言うと、あれだけの瓦礫を撤去し処分したのはすごいと思います。
が、それ以外では例えば鉄筋コンクリートの新築マンションなんかは見られません。

堤防は小さな入江、集落では海岸線近くに白く細い線が見られ、新築したように見えます。
一方、昨日挙げたような比較的大きな街となると海岸線の長さがあるので、
未だ、何の対策も取られていないところがほとんどのように思われます。
東北の太平洋岸の街の主産業は漁業や養殖業でしょうが、海沿いに住むのは無防備すぎる。

なので海と生きる人達は堤防が効果的でかつ避難しやすい小さな入江に
分散してしまうのがいいのかもしれません。
大きな街では海から一定の範囲は非居住地として、防潮林を植えるのが現実的か。

ただ産業はどうか、農業も津波が来たら一発アウト。工業もリスクを考えると二の足を踏む。
観光資産もなければ果たしてその街は再び自立することができるのだろうか。

住民の高齢化も進んでいると思います。厳しい仮設住宅での生活の対処療法として
その近くに高層ケア付きマンションを建ててしまうという方法はあるかと思います。
しかしそれはイコールその街を捨てるということになります。それがいいかは難しい。

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2014年8月29日 (金)

GoogleMapで東北被災地

一度ちゃんと被災地を見なければと思いながら東日本大震災からもう3年。Hukushima
ふとGoogleMapの航空写真で福島第1原発を見てみました。

航空写真は結構な頻度で更新されているようで、瓦礫のようなものは見られませんでしたが
ぐねぐねに曲がった建屋の鉄骨はそのままであることが確認できます。
気になったのは、福島第一原子力発電所という記述が消えている。

そこから海岸線沿いに視点を北に移動させてみます。
程なくして更地に住所だけが虚しく残っている地域が目に入ってきました。
恐らく街であったのでしょうが、津波で跡形もありません。(写真)

しばらく進むと仙台空港。本当に海に至近なところにあります。
仙台港近辺の工業タンクはまだ放置されているものが多い。
松島や塩釜は被害が少ない。それより北に行くと宅地造成のために山が削られている。

石巻には被害のあとが一部見られる。女川近辺では幾つもの小さな入江が壊滅していて
女川の山では造成が始められています。北上川が見えてくると大川小が確認できました。
しかしここにも小学校という記述はありません。機能していないものの名称は消すのか?

被害の大きい南三陸町が見えてきます。仮設住宅も徐々に目に入ってきます。学校の校庭にもある。
気仙沼にも被害はありますが部分的。より被災規模の大きい陸前高田では山を造成している。
大船渡は北への入江になっているためか被災範囲は限定的。

三陸町ではごっそり被害が見えます。釜石はなんとか部分的被災で済んだ感じ。
大槌町はほぼ全滅。山田町も被害が大きく造成を始めている。宮古は南以外は被害が少ない。
田老は壊滅状態で造成中。これより北は徐々に被害が見られなくなっていきます。

上に挙げたのは報道でも聞いた比較的規模の大きな集落ですが、
これ以外に、全滅になったであろう入江が数多く見られました。
そこでも気になったのは名前。地域の名称が記されていない。

人が住まなくなったら地名って消えるものなのでしょうか。
岩手、宮城では福島に比べて地名の削除率が大きいように思いました。
地名を決めるのは自治体なのでしょうがどうなんでしょう。

地元民は地名で今回の被害を記憶していると思うので、それは変えるべきではない。
先日の広島の土砂災害でも報道されていましたが、地名というのは教訓も含んでいる。

東北もインフラが復興しコンビニなどが戻ってくれば、防災用避難タワーなどとともに
また家は建ち始めると思いますが、その時に津波の記憶だけは風化させてはいけないと思います。

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2013年2月20日 (水)

第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館帰国展

*第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館帰国展/ギャラリー間Rimg0169
 130323まで/11:00-18:00(19:00金)/日月祝休/無料

会場に入ると壁一面に引き延ばされた被災後の陸前高田のパノラマ写真が目に入ってきます。
それはガラスの外のテラスまで続いていて、カメラの視点が津波の高さであったという表記がある。

そこに存在したであろう無数の木造家屋は影も形もありません。
辛うじて残っているのは鉄筋コンクリート造と思われる幾つかの中層の建物だけですが、
よく見ると3階部分までは水没しています。ところによっては4階も。

ということはこの画角にあるエリアはほとんど水没したことになります。
建物に逃げ込んだひとはおそらくほとんど助からなかった。

上階の展示室では被災後の陸前高田を写真家の畠山直哉が撮影したスライドが流れています。
そこではありとあらゆるものが原形をとどめないほど変形してぐちゃぐちゃになっている。
にわかには信じられないほどの自然災害の猛威がそこにありました。

畠山氏は報道カメラマンではありません。くくりとしては美術家でしょう。
その彼がなぜ陸前高田を撮ったかというと、そこが彼の故郷だったから。
そして実家が被災して、母親を失ってしまったから。
それゆえ覚悟、もしくは使命感のようなものもあったのかもしれません。

そんな彼から見て、今回の建築プロジェクトはどう映ったのだろう。
ゲーム?かたち遊び?そんなところではないのか。

むしろ住民側の窓口になった菅原さんが決めた立地の方が意味が大きかったかもしれません。
それはパノラマ写真の奥、山裾の平地にあり、被災エリアです。
計画開始時、当然のようにまわりには建物は何もありません。
避難した住民も戻るか移転するか迷っていたと思います。

そんな状況で、菅原さんは私は住む、戻ると拠点をつくりました。
これはこれから始まる復興、街づくりの大きな起点になるかもしれません。

被災地では震災から2年が経とうとしている今でもおそらく混乱し、停滞が続いています。
まずは大量の瓦礫を撤去し、処分する一方で土地を捜して仮設住宅をつくるだけでも
いっぱいいっぱいだったろうと思います。費用拠出の問題もあるし。

さらにこれから先、区画整理の話などになると権利の問題が発生します。
土地所有者が亡くなったケースが多いと思われるので交渉は難航するでしょう。
そこで必要とされるのは建築家などではなく、行政のマンパワーです。
人手も必要だし、多くの独断を含めたリーダーシップも求められます。

しかし残念ながら現状としては全く不足していて、出向した人材から自殺者が出てきてしまっています。
ひとつの建築をつくって万歳三唱したり、ビエンナーレで賞をとって
この喜びを陸前高田のひとと分かち合いたいなどと言っている場合ではないでしょう。

ここに、建築は、可能か=ここに将来的に住むことは果たして現実的だろうか?であるなら
それは被災者ひとりひとりが判断しなければならないことで、今だ結論が出る見通しはたっていません。

2012年3月25日 (日)

地縁

最近、高齢者や障害者の孤立死がよくメディアに取り上げられています。

舞台となるのは東京が多く、都会は田舎のしがらみを嫌って出てくる人も多いですから
そういう傾向はあるだろうなとは思います。

僕の住んでいる街でも、もともと住んでいた祖母の代ではつながりがあったのかもしれませんが、
代替わりが進むとそれも薄くなり、今は町内会はあるものの回覧板を回し、
持ち回りで町内会費、募金を集めにまわるくらいで、イベント参加者は少ないようです。
それこそ孤独死があっても不思議ではない感じ。

一方、東日本大震災を受けて、高台移転を検討する南三陸町や
原発事故で強制退避になった双葉郡浪江町がコミュニティの存続をかけて
必死で模索している様子がドキュメンタリー番組で放送されていました。
どちらも元住んでいた地域に戻るのは難しい状況で、代替地を捜しています。

そこで出てくる危機意識は町がバラバラになってしまわないかということ。
それは町民同士の心のつながりはもちろん、地域内で完結している産業にも大きな影響を与えるものです。

ただ東京にいる人間の冷めた目からすれば、ひとのつながりというものはいつか終わりがくるものです。
今まであったコミュニティも、縄文時代からの日本歴史に比べれば、
ごく近年から始まったものでしょう。
人間、生きていれば喪失体験からは逃れられません。
そしてそれを乗り越えていくのが日常であり、人生であったりします。

地域産業に関してはグローバル化の波が打ち寄せており、
震災がなくてもいずれは衰退する可能性が高いと思います。
東京では既に町のCDショップ、喫茶店、自転車店、家電店など小売店はなくなりつつあります。
まして浪江町では原発関連の需要がゼロになります。

震災で顕在化したこのふたつの事例は、全国で徐々に進んでいる過疎の問題を、
時間を圧縮して強調させたものなのかもしれません。
残すという意思は大事ですが、この世のあらゆるものはすべて移ろい行くものです。
それに逆らうことはできません。

そう書いている本人もネットコミュニティの消滅についてじたばたしましたが…。

2012年3月21日 (水)

故郷

原発事故から1年。
放射線に対する報道が減るに連れて危機感が薄くなってきました。
福島から避難している人も同じような状況にあるのではと推測します。

放射線は目に見えないし臭いもないのでその毒性が意識しづらい。
で、なんとなく大丈夫のような気になってしまうのは
他人の死しか体験しない人間特有の楽観性によるものでしょう。

そんななか、故郷に戻りたいと思う人は増えているのではないか。
特に子どものいない人や子どもが成人したお年寄りに。
放射線を浴びたり汚染された食物をとったりしても即、癌になることはない。
リスクは確実に高まりますが、例えて言えば喫煙と同じようなものです。

日本人の死因のトップは癌です。
どんなに健康に気を遣っても癌にかかり、死んでしまう可能性は大きい。
ならば住み慣れた故郷で穏やかな老後を送ることを優先させたいという気持ちもわかります。

政府も東電も将来訴えないという条件で帰郷を許可してもいいのではないか。
できればインフラも復旧させて、コンビニなんかも再開させたいところですが、そこがネックかな。

2011年12月13日 (火)

震災と2011年

今年一年を表す言葉は絆だそうです。

やはり2011年と東日本大震災は切っても切れないものだと思います。
逆に震災を今年という年で区切ってしまうのはよくない。
東日本大震災は東京の空襲や阪神淡路大震災と違って、
ストレートに復興できる性質のものではないからです。

今回の震災で被害を大きくしたのは津波と原発です。

その大きな地震エネルギーは堤防を破壊し、平地に地盤沈下を起こしました。
今同じところに家を再建しても同規模なもしくはより小規模な津波が起きても
建物はさらわれてしまうでしょう。まずはより強固な堤防の再建が必要です。

その上で、とっさの避難のできない高齢者などは高地移転が求められます。
しかし、仮設住宅でさえ困難だった敷地選定に加え、
坂道が高齢者の日常の移動を困難にするという問題もあります。

原発についてはもう既に10年単位の問題であることが明らかになっています。
これについてはぼくは意識的に気にかけないようにしています。
事故当初にもたらされた情報からは絶望的な状況しか読み取れなかったからです。
素人考えで解決できるような問題ではない。東電の現場員を信ずる他ありません。

そして震災はぼくに心理的変化ももたらしました。
津波で原発でどうにかしようにもどうにもならない人を多く知りました。
地震は2万人近くの命を奪った上、その何倍ものひとの時間を停めてしまった。

ぼくの心も停まりました。そしてあらためて仕事のことについて考えました。
ずるずると引きずられながら仕事にしがみついていましたが、手を離しました。
人と比べない、勝ち負けを意識しない自分なりの建築への関わりを模索しています。

2011年8月 1日 (月)

寄付金や義援金

昨日、テレビを見ていたら、被災地で仮設住宅に入居しているお年寄りが
無職で電気料金を節約するため、室内気温39度でもエアコンを作動させていない、
という状況をニュースで知りました。
あの世界中から寄せられた莫大な額の寄付金、義援金はどこに行ったのだろう?

まず、個人に渡されるのか、国、自治体のものになるのか。
個人に行くものは死者を出した家族への見舞金なんかもあったりするのか。
怪我、病気をしたひとの治療費は含まれているのか。
仮設住宅の建設費は国か自治体が負担して、入居費用は不要。
でも水道光熱費は自己負担のようです。食費の援助はあるの?引越し費用は?

家を再建するための助成金になったりするのでしょうか。
漁業や農業、商業に対してはどうなのでしょう。
失業手当はおそらく出るのでしょうが、それも1年間だけ。
それで大丈夫なのでしょうか。

区画整理による土地買収は国、自治体の負担でしょう。
瓦礫撤去、廃棄処分も同様。新たにつくられる堤防もそうでしょう。
道路、鉄道の復旧というのもあります。インフラの復旧もまだですね。
そこらへんの負担で消費税増税の話が出たのかもしれませんが、
それでまかないきれるのか。

だいたい寄付金、義援金をどう扱っているのか、担当者が見えません。
使い道は明確な形で公開するのが義務だと思うのですが。

避難所が閉鎖されれば食料の援助等はなくなるのでしょうが、本当にそれでいいのか。
いらないと言われた冬服でさえ、必要となる時期が近づいています。
被災地では今、何が必要とされているのかも見えません。

2011年7月15日 (金)

デザイン?の2

だってまだ畑や海は放射能で汚染されているし、瓦礫撤去も進まず山になったままだし、
田んぼは海水に浸かるし、地盤沈下は陸を海に変えてしまったし、
地盤液状化で傾いた家の多くはそのままだし、行方不明者の遺骨も見つかっていないし、
もう4ヶ月も体育館で暮らしているひともたくさんいて、目前の課題が山積みなのに、
震災が人々の意識をどう変えたか?なんて、被災後に初めて現地入りした首相が
被災者のお年寄りに「エコタウンをつくりましょう」とのたまったのと同じくらいKYな感じがしたわけで。

もうひとつ。
デザインって、ぼくら建築家が目指しているのはいいデザインなんかではない。
例えばエアーズロックとかイタリア山岳都市の街並とか、ローマのパンテオンとか、
古い日本家屋の外廊下とか、いいデザインですねえなんて言ったら的外れもいいとこ。
もっと渾然一体となった五感に訴える何か、場、場面展開あるいはもの。
ぼくらが見据えているのはそういうものです。
デザインとかスタイルとかセンスとか言ってしまうと取りこぼしが多過ぎます。

2011年7月14日 (木)

デザイン?

某社のアンケートから。

・震災以降、復興のために一番役に立っていると感じるデザインは次のうちどれですか?

復興支援を呼びかける広告・ポスター・Webサイトなどの制作物や活動
節電を呼びかける広告・ポスター・Webサイトなどの制作物や活動
LED電球やエコ住宅などのプロダクトなど

・震災以降、デザインやモノづくりはどのように役に立つと思いますか?

新しい価値観をカタチとして表現する
イノベーションによって新たな生活の手段を提供し、生活の質を高められる
デザインを所有することで、心の豊かさを得ることができる
社会的な課題・ミッションを共有し、方向性を示すことができる

デザインさんの自意識過剰だと思う。

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